スコットランド史

このスコットランド史は私のスコットランド行に際して個人的にまとめたものです。なかなかスコットランドの年表などがないので、参考文献をもとに作ったもので、内容を保証できませんが、参考になれば。また、スコットランド出身の18世紀の建築家ロバート・アダムに関連して、スコットランドを含むイギリスの建築史の年表も作りましたのでご覧ください。
                                                                                                    トップページへ戻る

王  朝

年 号

スコットランド史

建築史その他

最初に定住したのはビーカー族(Beaker)だった。広口のコップ(ビーカー)と一緒に埋葬された。

 

紀元500年頃の民族分布図

 

 

 

 

 

 

紀元前1000

中央ヨーロッパ起源のケルト系のピクト族が大陸より移動してくる。ピクト族は体に色を塗るか刺青をするかの風習があったことから、ローマ人がpict(色を付けた)族と呼んだ。

紀元43

ローマ軍がブリテン島に侵入する。ローマ帝国属領のブリタニア州となる。現在のスコットランドはローマ人はカレドニア(Caledonia)と呼び、ピクト族はオールバ(Alba)と呼んだ。

83

ローマ軍がスターリングに前線司令部を置く。

121

ローマ皇帝ハドリアヌスがピクト族の南進を防ぐためにボーダーよりも南にHadrian's Wallsを築く。翌年完成。

140頃?

ローマ皇帝アントニナス・ピウスが更にクライド川からフォース湾までにAntonine Wallを築く。しかし200年過ぎに放棄。石造りではないため、現存していない。

500

アイルランドからケルト系のスコット族がキンタイア半島からオウバンまでとその間の島嶼部に進出。キンタイア半島の根元のAdd川近くにダルリアダ王国を作る。

563

アイルランドの聖コロンバ(St.Columba)がヘブリディーズ諸島のアイオナ島(Iona)に渡り、修道院と建設する。キリスト教の布教によって民族の宥和が進む。

アルピン王朝(House of Alpin)

846

ダルリアダ王がオールバ王国との戦いに勝ち、オールバ王となり、連合王国ができる。オールバ王国と名乗る。首都をオウバン近くからパース近くのスクーン(Scone)に移す。同時に運命の石も移し、戴冠式を挙げた。この石は伝説ではパレスティニアにあって聖ヤコブが頭を載せたものを、アイルランドのダルリアダに運び、それがスコットランドにもたらされた。聖地もアイオナ島よりスクーン北西のダンケルド(Dunkeld)に移し、聖コロンバの遺骨も改葬した。

1018

オールバ王マルカム二世がアングル人のロージアンを併合。また直系の孫のダンカンが、ブリトン王位(ストラスクライド王位)を継承した。このころからスコウシア王国と呼ばれるようになる。

アサル王朝(House of Athol)

 

1034

母系継承の一種であるタニストリー(tanistry)から長子継承へ移行して初めてのスコウシア王国(もとのオールバ王国)の王として、ダンカンが王位についた。ダンカンは後に従兄弟のマクベス(Macbeth)に殺され王位を奪われた。

1066 イングランドではノルマン・コンケスト始まる。征服王ウィリアム一世がノルマン王朝を樹立した。

1067

征服王ウィリアムに追われたサクソン王位継承者アシリングの一行が逃亡途中でスコットランドの東海岸に打ち上げられた。マルカム三世はアシリングの妹のマーガレットと再婚する。

マーガレットの進言により封建制度を導入。教会の典礼方式をケルト式からサクソン式に改める。エジンバラ城が王宮として使用されるようになったが、そこにセント・マーガレット・チャペルを建てた。

1071

ウィリアム征服王がスコットランドに侵攻、パース近くで和議を結ぶ。マルカム三世の長男のダンカン二世を人質に取られたうえ、イングランド王への臣従を誓わされた。

このころからスコットランド王家とイングランド王家の間に多数の姻戚関係が生まれるが、それでもお互いの戦争はやめなかった。

1098

キンタイア半島、ヘブリディーズ諸島をノルウェイ領として認める。

1124

デイヴィッド一世王位につく。ノルマン人を多く登用し、政治宗教のノルマン化した。スコットランドで初めてコインを鋳造した。自由都市(burgh)を開設し、免税・市の開設等の特権を与えた。

このころからスコットランド化した英語(Inglis)が統一言語として通用するようになってきた。

1168

イングランド王ヘンリー二世に随行を強いられて、フランスに渡ったスコットランド王ウィリアム一世はフランス王ルイ七世と仏蘇同盟(Franco-Scottish Alliance)の密約を結ぶ。これは後に古い同盟(Auld Alliance)と呼ばれる。

イングランドを牽制するために親仏色を強める。

1174

 

ウィリアム一世はイングランドのヘンリー二世の親子・兄弟間の争いに乗じてイングランドに攻め入るが、捕らえられてフランスに送られる。身柄の釈放と引き換えに、完全に臣従すること、スコットランド教会のイングランド大司教の管轄下に入ること、スコットランド南部の城塞にはイングランド軍が駐屯することなどの協定(Falaise協定)を結ばされる。

1189

イングランドの獅子心王リチャード一世は十字軍遠征に熱を上げ、ファレーズ協定の解消と引き換えに遠征資金を得た。スコットランドは一万マークを支払う。これをカンタベリーでの臣従解除の協定(Quitclaim of Canterbury)という。

これ以降、100年近くイングランドから独立をたもつ。

このころでもスコットランド全土の統一はなされておらず、とくにハイランドはピクト族が優勢だった。

1236

ヨークにおける条約で、国境をツイード(Tweed)とソルウェイ(Solway)を結ぶ線に決まった。

1215 イングランド王ジョンは反抗する貴族に権利を与えるマグナ・カルタ(Magna Carta 大憲章)をのまされる。

1249

アレグザンダー三世即位。このころ国民生活が潤い、「黄金の時代」と呼ばれた。スコットランドの人口40万人。

東海岸のベリック(Berwick 今はイングランド)が漁港、貿易港として栄える。

1261

アレグザンダー三世はヘブリディーズ諸島をノルウェイから奪回する。

1263

ノルウェイ王ホーコン四世がクライド湾に侵攻してくる。暴風雨で大損害を受けるが、10月3日夜ラーグズ(Largs)に上陸を試みる。しかし、素足のノルウェイ兵があざみを踏んでしまい大声を出したことから、敵の上陸を知ったアレグザンダー三世は背後にまわり、大勝をおさめた。このことから「あざみ」をスコットランドの紋章として使うようになった。

1286

アレグザンダー三世の死で、直系男子がいないので、ノルウェイ王妃となっている長女の娘、マーガレット(the Maid of Norway)を女王として迎えた。当時3歳であった。

1290

イングランド王エドワード一世はマーガレットより一歳年上のイングランド皇太子と結婚させるように画策。マーガレットはスコットランドに初めて来る途中、大時化にあいなんとかオークニー島にたどり着いたが、極度の船酔いでその地で死んだ。7歳であった。これが、アサル王朝の終焉であった。

ベイリャル王家

1292

イングランド王エドワード一世の傀儡、ジョン・ベイリャル(John Balliol)が、エドワードの裁定で王位に就く。

1295

ベイリャルは度重なるイングランドからの屈辱に対して、フランス王フィリプ四世と同盟を正式に結ぶ。

1296

ベイリャルはイングランド北部に侵攻。イングランド王エドワード一世の反撃に合い、降伏する。以降10年間スコットランド王位は空位となり、イングランド王による統治が始まった。エドワードはエルギンまで兵を進め、スコットランド王家の宝石とともに、スクーンの石までもロンドンに持ち帰った。ウェストミンスター寺院のイングランド王戴冠の椅子の下にスクーンの石ははめ込まれた。1996年にスコットランドに返還されるまでに、スコットランド愛国者に何回か持ち運ばれた。現在はエジンバラ城内に展示してある。

この侵攻の際も、スコットランド南部の貴族達は直ぐイングランドに寝返った。以前も以降も歴史を通じて、スコットランド貴族は一致団結してイングランドに対抗することがなく、お互いの勢力争いやスコットランド王位を争うことに拘泥した。

ウィリアム・ウォリスはグラスゴウ西部のレンフルー(Renfrew)で生まれた。1297年春、グラスゴウ東南のラナク(Lanark)の市場でウォリスはちょっとしたことで、イングランド兵と喧嘩になりそうになったが、ある女性の機転でその場を逃れた。しかし、その女性はラナクのイングランド軍長官によって処刑されてしまった。それを見たウォリスは長官を殺し、イングランド軍によって指名手配されることとなった。それまでイングランドの統治に忍従していた、スコットランドの民衆はウォリスをかばい、イングランド軍に対抗する反乱軍となった。フォルカークの戦いで敗れた後、七年間はゲリラ戦に出たり、フランスに渡ったりしたが、1305年グラスゴウ近くでイングランド軍に捕らわれて1306年にロンドンで八つ裂きの刑に処せられた。その体はロンドンやスターリング等でさらされた。

ブルース王家

1297

ウィリアム・ウォリス(Sir William Wallace)蜂起。スターリング城北東、フォース川にかかるスターリング・ブリッジの戦いでイングランド軍を壊滅する。

1298

ウォリス軍はスターリング南のフォルカーク(Falkirk)の戦いで、イングランド王エドワード一世と戦い、大敗する。

1306

ロバート一世(又はロバート・ドゥ・ブルースRobert de Bruce)スコットランド王位を宣言。王位宣言はもとより広く承認された訳ではなく、イングランド王エドワード一世は直ぐにロバート軍を討った。ロバートは一時はノルウェイに渡るほど逃げまわった。

ロバートはベイリャルの甥で同じくスコットランド王位を狙うジョン・カミンと共にイングランドに抵抗した。しかしその間も、元々親の代からイングランド臣従者であったロバートはイングランドに再び臣従を誓うなど、風見鶏的な動きをした。

1307

ロバートのゲリラ戦が功を奏し、再びイングランド王エドワード一世が討伐のためにスコットランドに向かうが、途中で病没する。皇太子エドワード二世はホモ相手の家臣にうつつを抜かし、ロンドンへ引き返してしまう。

これ以降、ブルース一世はスコットランド内のイングランド軍の一掃に取り掛かる。1311年から1314年にかけて、パース、ダンディー、ダムフリース、エディンバラを解放した。

1314

スコットランド内のイングランド軍の拠点はスターリングとベリックだけになり、遂に、スターリング南のバノックバーン(Bannockburn)で、ロバート一世とエドワード二世の決戦になり、ロバート軍が大勝した。

1316年にはロバートはアイルランドに攻め入り、ロバートの弟がアイルランド王となった。また、ベリックは1318年に奪回した。

1323

ローマ法王がロバートの破門を解き、スコットランド王として認める。

1337年にイングランド王エドワード三世はフランス王位を要求して100年戦争をおこす。

1329

ロバートの死により、ロバートの長男デイヴィッド二世は5歳で王位を継いだ。

1332年イングランド王エドワード三世はイングランド寄りのスコットランド貴族と通じ、ファイフに上陸し、ジョン・ベイリャルの長男のエドワード・ベイリャルを王に即位させた。そのため、デイヴィッド二世はわずか3年で廃位された。1334年にはデイヴィッドはフランスへ亡命した。1341年帰国。

1346

デイヴィッド二世イングランドに攻め入り、捕虜となる。ロンドン塔で厚遇されて11年間暮らす。この間、ロバート一世の孫であるロバート・スチュワートが摂政となった。

1357

イングランド王エドワード三世は10年の休戦条約と身代金10万マークでデイヴィッド二世を釈放した。

ロンドンで放蕩をおぼえたディヴィッドは1363年に自らロンドンに戻った。1371年エジンバラで他界し、国王としては初めてホリールード・アビーに埋葬された。

スチュワート王朝(House of Stewart)

1371

ロバート・スチュワートがロバート二世としてスコットランド王位に就く。平穏な治世が続く。

スチュワート(Stewart)の語源はHigh Steward of Scotlandと言われ代々スコットランド王に仕えてきた宰相兼財務長官から来ている。stewardは更にさかのぼると豚小屋の番人sty-wardenを語源とするstiwardにたどり着く。ロバート二世は第9代スチュワード職である。のちにメアリー女王がフランス好みから、綴りをstuartに変えた。

1390

ロバート二世の死により長男のロバート三世が王位に就く。しかし、しばらくの間、弟のロバート(後のオルバニー公)が摂政を務めなければならなかった。

ロバート三世の長男のジェイムズ12歳はフランスへの留学の際にイングランドに逮捕された。18年間ロンドン塔に留め置かれることとなった。しかし、その間最高の教育を受けることとなる。

1406

ロバート三世の死と、ジェイムズのロンドン抑留のため、オルバニー公の摂政統治が始まる。毎年一回の議会を開き、セント・アンドリューズ大学を創設(1412)した。

1424

4万ポンドの身代金と引き換えにジェイムズ一世ロンドンの捕虜生活よりスコットランドに戻る。早速議会を開き、「国民はすべて法の下に安全である」旨の条例第1号を制定。この議会をOld Courtと呼ぶ。

1437

公金の私的流用などで不満を持った貴族にジェイムズ一世が暗殺される。同時にジェイムズ二世が六歳で即位する。

1451年ジェイムズ二世はグラスゴウ大学を創設。

1455

臣下のダグラス伯を制圧する。この時威力を発揮したのが、フランドルから輸入したといわれる長さ4メートル、口径50センチの大砲モンス・メグ(Mons Megフランドルのベルゲンの別名モンスと大きいメグの意)である。イングランドではヨーク家とランカスター家の争い、ばら戦争がおき、以後30年間続く。

1460年イングランド領となっていたロクスバラ城を奪還すべくモンス・メグ数門で攻撃したが、その一門が爆発しジェイムズ二世は命を落とす。ロクスバラ城は結局陥落したが、廃虚となった。フロアズ城の一角に白いマークをつけた柊の大木があるが、その地点こそジェイムズ二世が死亡した場所である。

1485年ばら戦争を制したヘンリー七世がチューダー朝をひらく。ばら戦争に貢献した臣下に土地が再分配され、新興の地主層を生み、カントリー・ハウス建設の施主となる。

1488

極めて優しい統治を行ったジェイムズ三世に不満を持つアンガス伯等の貴族は皇太子ジェイムズ四世を取り込み反乱をおこし、ソーキーバーン(Sauchieburn)で王軍を破りジェイムズ三世を殺害した。15歳の皇太子ジェイムズ四世は父王殺害に自責の念にかられ生涯鉄の鎖を肌に巻き付けた。

ジェイムズ三世は文化面ではルネサンスを花開かせた王であった。建築家コホラン、音楽家ウィリアム・ロジャー、服飾家ジェイムズ・ホミルを側近とした。文学ではRobert Henyson, Gawin Douglas, William Dumbarが国王の庇護をうけた。スターリング城のグレイト・ホールは全英で最も早いルネサンス建築である。

1491

アンガス伯の謀反に対してジェイムズ四世はアンガス伯の居城タンタラン城(Tantallon Castle)に伯を軟禁した。しかし伯に忠誠を誓わせ、以後宰相にまで登用される。

フランス語、ドイツ語、イタリア語、ラテン語の通じた語学の天才であるジェイムズ四世はゲール語や方言にも通じ、ハイランドの氏族の人心を掌握した。ルネサンス的万能を示し、庶子の教育にあたったエラスムスが絶賛するほどであった。また国民にも絶大なる人気を誇った。1507年にはスコットランド初の印刷が行われる。アバディーンに三つめの大学が創立される。貿易も活発になり、国民生活も向上した。

1503

イングランド王ヘンリー7世の強引な勧めで、自らの長女であるマーガレット(14歳)とジェイムズ四世(30歳)がホリルード宮殿で結婚する。

1513

フランス王ルイ十二世の支援要請でイングランドと戦いになり、フロドゥン(Flodden)の戦いでジェイムズ四世は戦死する。

15ヶ月のジェイムズ5世が即位し、摂政政治が始まるが、親仏派と親英派に分かれ、このころより親英ムードが強くなる。

1537

ジェイムズ五世はフランス王フランソワ一世の娘マドレーヌとパリ・ノートルダムで結婚する。しかしマドレーヌは半年後ホリルード宮殿で病死する。その後再び、フランスから妃を迎えた。

イングランド王ヘンリー八世は神聖ローマ皇帝カール五世の叔母のキャサリンとの離婚を認めるようローマ法皇に迫ったが、カール五世の圧力もあり、離婚は認められなかった。そのためカトリックから離れたが、その当時宗教改革は既に始まっており、イングランドも同じ方向に進むものと見られていた。新教を嫌ったジェイムズ五世はカトリックのフランスから王妃をめとったのだった。

イングランドの首長令(1534年)により、カトリックが解体され、国の富の三分の一を所有したといわれている教会の土地などが再分配され、ヘンリー七世同様新興地主層を生む。

1542

ジェイムズ五世はイングランドとの戦いの敗北のショックで病没する。生後6日のメアリー(Mary)が即位する。イングランド王ヘンリー八世はメアリーを皇太子の結婚を強要するべく出兵を繰り返した(手荒な結婚申し入れRough Wooing)

執拗な求婚にメアリーをフランスに避難させることにし、替え玉として四人のメアリー(The Queen's Maries)を同道させた。フランス式の教育を受けた。イングランド王エドワード六世には男子の世継がいなく、妹のメアリー(チューダー)もエリザベスも庶子なので、祖母のマーガレットを通じてイングランドのチューダー家の血を引くメアリーの方がイングランド王位継承ついて正統だった。このため、フランス王アンリ二世はメアリーがフランス王妃であると同時にスコットランド女王であるばかりでなく、イングランド女王になる可能性があり、平和裏にイングランド王位を要求できると考えていた。

1558

メアリーはフランス皇太子フランソワとパリ・ノートルダムで結婚する。イングランドではエリザベスが即位するが、フランス王アンリ二世はメアリー(スチュワート)が正統であると主張。イングランド議会はエリザベスの嫡出を急遽議決した。

前年メアリーの夫でフランス王のフランソワ二世が死に、13年ぶりにスコットランドに戻ってくる。18歳だった。

1561

当時既にプロテスタントが幅をきかせ、親英派も多く、カトリックのメアリーはあまり歓迎されなかった。

1565

三歳年下のダーンリー卿に目を付けたメアリーは直ぐに結婚する。しかし半年で二人の仲は冷めてしまった。ダヴィッド・リッチオというイタリア人音楽家を寵愛した。

1566にはメアリーがホリルード宮殿の寝室の隣の部屋でリッチオを含め夕食を摂っていたところ、ダーンリー卿が珍しく席に加わり、しばらくして、男等が乱入し、リッチオを連行しダーンリー卿の部屋に近い接見室前で殺害した。その際危うく流産しそうになった子が後のジェイムズ六世である。

1567

エジンバラの教会カーク・オ・フィールド(Kirk O'Field 現在のエジンバラ大学の構内)で何者かによりダーンリー卿が爆殺される。その三ヶ月後首謀者と言われたボスウェル伯とメアリーはホリルード宮殿で結婚する。

1568

国内の反発を買ったこの結婚により、反ボスウェル伯の貴族はメアリーを廃位した。その結果メアリーの長男のジェイムズ六世が生後13ヶ月で王位についた。17歳で親政に乗り出すまでは摂政政治が続いた。

廃位後メアリーは幽閉されたが、そこを抜け出し兵を起こすが、戦いに敗れイングランドに逃げ込み又従姉妹のエリザベスの庇護を求める。1587年エリザベスの暗殺謀議の疑いで捕らえられ処刑される。

1603

エリザベスが亡くなり、イングランド王ヘンリー七世の血を引く(玄孫)ジェイムズ六世はイングランド王を兼ねることになり、知らせを受けた9日後にはロンドンへと旅立った。その後14年間スコットランドへは戻らず、またこれが最後のスコットランド訪問となった。これ以降イングランドとスコットランドは同一の国王を戴く同君連合(personal union)の時代となる。

紋章については左が優位となるので、大紋章を使う場合どちらの王としてかによりイングランド(王冠をつけたライオン)とスコットランド(王冠をつけたユニコーン)のそれぞれのシンボルをどちらに置くか決めた。ちなみにただの紋章では寝そべったライオンがイングランド、立っているライオンがスコットランド、琴がアイルランドのシンボルである。

1649

イングランド・スコットランド王チャールズ一世は清教徒革命により処刑される。

セント・ポール大聖堂をはじめ公共建築物を設計したクリストファー・レン(16321723)はバロック建築家のはしりである。

1651

オランダに亡命していたチャールズ二世がスクーンでスコットランド王に即位する。1660年にイングランドで王政復古をする。

1688

カトリック贔屓のイングランド王ジェイムズ二世・スコットランド王ジェイムズ七世は長女のメアリー二世と夫のオレンジ公ウィリアム(三世)に追放され、名誉革命が実現された。夫婦の共同君主(Joint Sovereigns)統治となった。

亡命したジェイムズ七世支持派はジャコバイト(Jacobite ジェイムズのラテン語読み)と呼ばれた。しばしば反乱をおこした。

1692

ウィリアム三世への忠誠を誓わなかったとして、キャンベル氏族のマクドナルド氏族に対する私闘ともいえるグレンコウの虐殺がおきる。

1706

懐柔されたスコットランド貴族ら代表31人とイングランド代表31人による連合会議がロンドンで開かれた。イングランドからの補償金40万ポンド、教会・裁判・司法の組織の現状維持、各都市の特権、スコットランド議会の閉鎖、ハノーヴァー家への王位継承について合意した。

女王アンは世継がなく、スチュアート王朝最後の王になるものと思われた。次の王はドイツよりスチュアートの血を引くハノーヴァー家から選ばれる予定であったが、スコットランド議会の承認もなければならならず、ジャコバイトの動きもありあるなかではイングランドは急がなければならなかった。そこで議会の連合のために国自体の連合の工作が進められた。

1707

イングランド、スコットランド両王国は連合し、グレイト・ブリテンとなった。人口比5対1、貴族院121、下院111の不平等なものであった。

1714年英語の離せないハノーヴァー家のゲオルグがジョージ一世として連合王国の王に即位する。英国国民に反感が広がる。

ハノーヴァー王家

 

1715

大僭称者(オールド・プリテンダー)ジェイムズ八世はスターリング近郊で兵を挙げるが、王位奪還は成功しなかった。フィフティーンと呼ばれる。

上陸したときにあまりの無謀さにクランの首長が帰ることを勧めたが、"I come home."と言ったと伝えられる。次々にハイランダーを集め、エジンバラで父ジェイムズ八世をグレイト・ブリテン及びアイルランド王であると宣言したときには3000人の兵が集まっていた。

1745

オールド・プリテンダーの長男チャールズ、愛称ボニー・プリンス・チャーリーが蜂起する。小僭称者(ヤング・プリテンダー)と呼ばれる。25歳のチャールズはフランスの軍艦でスコットランド西岸に、従者七人と伴に上陸した。一時はロンドンの北200キロのダービーまで迫り、ロンドンはパニックになり、王家もドイツへの避難を準備した。しかし、兵站線が長すぎ、また期待したフランスの支援が受けられないと考えたチャールズは撤退した。

1746

インヴァネスの東カロドゥン・ミュア(Culloden Muir)で徹底的に敗れる。スカイ島に渡ったチャールズはフローラ・マクドナルドに助けられ、フランスへと脱出した。

この敗戦によって、クラン姓、タータンとキルト、バグ・パイプの使用が禁止された。

1760

このころより産業革命始まる。

1822

ジョージ四世がハノーヴァー王家としては初めてエジンバラを訪問する。ジョージはキルト姿で訪問し、公式の場でのキルト着用が再び認められた。

カレドニア運河開通

1837

ヴィクトリア女王即位

1889

鉄道専用のフォース・ブリッジ開通

トップページへ戻る